昭和54年5月1日 朝

御理解第12節
 神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。



 (   )の信心による神観と申しますか。金光教ではどういう神様を拝んでおるのですか。と言われたら、まあこういうふうに答えたらいいわけでしょうけれども、それがこういうふうに答えられるといううだけではなくて、その、空が神、下が神。いわゆる天地の、天地、いわゆる金乃神。天地金乃神と私共との繋がりがわかり、関係がわかって、その関係がいよいよ満ちなものになって天地との交流が始まって、それこそいつでも、どんな場合でも天地がばっくだと。こう言えれる、思えれるおかげの頂きれるところまで、この御理解12節は頂かなければ、ただそういう説明ということだけに済んでしまうと思うですね。
 私昨日、ある教会からいつも送っていただきます御本を見せて頂いておりましたら、あるまあ有名な先生が書いておられますのに、和賀心の世界。という題で書いておられますから、和賀心の世界というのをどのようなふうに捕らえておられるのだろうかと。楽しみをもって読まして頂いたけれども、初めから最後までとうとう和賀心世界とは、こういう世界だと言う事を書いてなかった。
 私はまあがっかりしましたけれども、一番始めからあの、先代の歌舞伎俳優であるとこの先代の中村詠衛門のことがずうっと書いてございました。まあこの人は動かぬ名優と言われるほど大変な俳優で歌舞伎役者でしたが、ある時に、その先生がまだ信心をしておるというだけの時に、そこの教会の縁を頂いておられる教会長、先生と一緒に中村詠衛門のお宅の宅祭りにおかげを頂いたことがあるという話が出ておりました。
 あの、中村、いわゆるなるこまや一門は、もうほとんど金光様の御信心をいたしますからね。今の歌衛門もやっぱり熱心に金光様の信心をなさいます。その、もうそれこそ、普通の教会では勝たないような大きなお宮が、そして、お広前も教会にのように広い。もう庭は見渡す限りどこまで広いか分からないというような豪華なお家と庭園。もう何々御殿と当時言われておったほどしですからもうたいしたことであったと。それで、まあ親先生がお祭りをどんどんお仕えになって、そこの(    )であるところの歌右衛門が車椅子に乗って、そしてあのー、御神前で玉串を上げらる時に自分が感じたと。
 というのは、どんなに(    )、または、財産。まあとにかく金殿玉露のようなお家に住まわれておっても、もしこれが、自分の足で歩かれて、自分の体で玉串をあげれるようなおかげを頂かれたら、これがまあ、歌右衛門さんの最高の喜びではなかろうか。でしまいとった。和賀心の世界ということは全然でてこなっかったんです。ね。例えばこの御理解12節でもそうです。ね。金光教での神様。そりゃあもう空が神、下が神とおっしゃるから。もう天地が、私共の拝む対象であろう。天地金乃神様とはそれなんだと。
 だからもう、朝晩天地の神様のご守護を受けて、天地の親神様をいつもこうバックに頂いておるんだと言うても、ね、その天地の親神様と言えるほんとの意味においての和賀心の世界。ね。そして、和賀心のせかいということはそのまま生神金光大神の世界にも通じる道なのです。ね。金光教の信心するならすべからく、皆が生神を目指さなきゃならん。為にはまず、和賀心の世界を開いて行かなきゃならん。ね。
 その和賀心の世界におかげを受けられ、お徳が受けられ、一段一段、一歩一歩生神への接近と言うか、生神の精進がなされて。生神金光大神の世界と言うのを、ものを、かいま見ずというのでなくて、その世界に住まわせて頂こうとするところに、お道の信心が私はあると思うんです。昨日は、月末御礼信話会でございましたから、皆さんのまあいろいろ、まあ大変な(        )でございましたから、様々な体験を皆さん発表しておられました。
  中に、秋山誠治君が、今度親教会の大祭の御用にまいりました。その御用に行った時の話をいたしておりましたが、神饌の御用をさしてもらった。果物を持ってようやくもりあげたところが、どこの先生か知らんけどもひょろっと入ってきてからこげなんこっちゃいかんちゅうてからみんなくずさっしゃった。そして、自分がもっとっと時よりもまだおかーしかごたるふうにもんなさったと言う話をしておる。
 (   )先生が参って来て尋ねられた。合楽では御大祭なんかの時の神饌は誰がするのかとこう言う。(    )のほうでは、祭事部というのがあって、祭事部の担当のご信者さん方がいたします。と言うたら先生が、合楽が根本的に間違っているのはそこだと言われた。私は夕べそのことをしきりにいろいろ考えてみたんです。もう、お供え物を壊された時にもかつっときたけれども、そのことにもかつっときたというわけなんです。
 皆さん、根本的ということはどういう事であろう。私共でもだんだん(   )させて頂いて、親に孝行したいばっかりで一心の信心をさして頂いた。まあ、このままの貧乏が続いたらもう目も当てられないと思った。もう、両親が死んだらあくる日からまた元の貧乏になっても良いからおかげ頂きたいと一心を立てた。一心を立てて信心をさして頂くようになったら、もっと別な親があることに気がついた。それは、この教えを、私を善導して下さった、導いて下さった、お取次をして下さる親教会というふうに感じるようになった。その頃が私の一番評論が良かった時でしょうね。この何十年間を通して。
 ね。もう一にも親教会、二にも親教会。段々信心を進めさせて頂くようになって、神様からお夢を頂いたり、まあ、ちょっとしたお知らせなんかを頂くようにならしていただいたら、今の教団の言うなら道が壊れてしもうておる。もうやっとかっと人が通る。もうトラックだん全然通られんような道だと。道修繕がいると言う事を頂いた。それから私の親というものが本部にこう変わって行った。
 そして、まただんだん、神様からお知らせを頂くようになったら金光教教団じゃない、そのまた一つ上の金光大神の世界。いわゆる金光大神と天地金乃神が、ね、言うならば、同根でおありに有ると言う事。ね。天地金乃神と同根なるとおっしゃる、いわゆる金光大神の世界をかいまみせて頂くようになり。そこに焦点をおいて、言うならば、人がなんと言うても、笑うても、誹っても神様の仰せには背かれんといったような生き方が段々出来てまいりまして今日の合楽なんです。ね。
 だから、そのときそのときでですね、やっぱ根本と言うものはちがうんじゃないかと。ね。合楽理念にその、芯になるものは親孝行だと言われる。だからその親孝行と言われるけれども、それは肉親の親であり。教えの親であり、言うならば教団であり、または天地金乃神と同根と言ったような世界というようなものがこう感じられるようになってくる。 いよいよ和賀心の世界と言うことになってくるわけであります。ね。だからここで私はそのあんまり信心が分かってくると、まあただ、天地が言うならば、金光教の信心の言うなら神観だと。この御理解十二節は。神観という程度にとらえただけで、その神様、そう感ずる神様を自分の心の中に感ずる。自分の心の中に頂く。例えば昨日の御理解を借りると、私の言うなら、我が取れて行くに従ってそこに入り込んでくださるのが天地金乃神様だと。神様が入って来る。だからこちらが、いよいよ我情我欲がなくなった時に初めて天地とのほんとの交流が始まるんだと。
 そこには、天地が自由になるほどしの、ね。(   )例えで申しますならば、あの起工式が行われました。ああいう会社に恵まれて起工式があった。あくる日は雨風であった。ね。昨日、一昨日は初めての皆総動員で庭の植木の移植の御用にあたられた。もうほんとに良いお天気の中に、もうほとんどが済んでもう夕方になって、ボツボツお湿りがありだした。そして、夜はもうじっくりお湿りを頂いて、そして昨日が、また、あとの残りの、昨日で終わったわけでしょうけれども、そしてあんなに降っておった雨が、いよいよ御用を頂くという時間にはもうからっと晴れた良いお天気で、ね、昨日一日おかげ頂いたでしょう。
 まあ、そういうことまでを言うと、合楽の場合いつもそうでしょう。ああ、これが天地のバックと言うのであろうかと。ね。と思わずにはおられない。そこにです、言うならば合楽と天地との言うならば交流。言わば合楽しあっておる、そこから生み出されて来るところのおかげ、または、自称自体であります。ね。ですから合楽で言う言うならば、その(    )の先生が言われたと言う、合楽は根本的に間違っておる。どこが間違うとるかと。だいたいがそれは修行生がせなならん。それを信者にさせて、もう根本的にそこから間違うとる。というふうに、まあ言われたんだそうですが、そりゃ、修行生が、私はしてもそげなことはせん。じゃ私には問題じゃないわけです。合楽の信心では問題じゃないわけ。ね。だから問題は、その根本的なところに本当なものを根本にしての信心を進める。
 昨日、御理解の中にも申しましたように、楠正成であり(     )である。お互いがいよいよ、大きくおかげを頂くためには楠太りのおかげ、それには正しく、ね、茂る。正成。ね。こうでもあろうか、ああでもあろうかと様々な言うなら手探り的な信心をさせて頂いて、言うならば合楽理念の確立と言う事になった。もう絶対な道だとということになった。これならば天地と合楽しあえる道が必ず開けて来るんだと言われるようになった。その根本は、どこまでも天地の親と子との繋がりにおいての根本である。
 私もそれこそ肉親の親、様々な親というもう、そしてどういうことになっておるかと言うと、その天地との交流、天地の親神様との交流がなされる。その以下の親はもう大事にするなと言われてもせずにはおれないものが生まれて来るんです。必ず。ね。もう、天地の親神様との交流が(  )たけん、もう肉親の親は(         )けしてない。(笑)それがそう、孝行させて頂けるようにちゃんとそういう仕組みになってる。
  ですから、ね、お互いの信心が一段一段進まして頂いてです、ね、言うなら最高の最大の言うならば親との交流がなされるようなおかげを頂いて初めてそういう言うならば、まあ体験と申しますか、ね。私共が拝んでおる神様は天が神だ。下が神だと。ね、その天地との繋がりを段々研究したり、ね、いわゆる求道と申しますかね。道を求め求めしてまいりますと、ぎりぎりは天地と私共の繋がりということになってまいりますとね、これはもう、他の宗教、宗派というものは繋がっておるようで繋がってない事になるんです。
 言うなら天地の心を知らない宗教だという事になるんです。そうでしょう。ね、なんと言う日が悪いとか(笑)なんという物は食べられないとか、なんという物は飲まれないとか、もうこれだけでもほんとに天地の心を心としてないということがそれだけでも分かるのです。そういう意味で合楽理念は簡単です。そうでしょうが。分かるでしょ皆さん。
 金光教の信心がどんだけ優れているか、素晴らしいかという。もう、ほんとに天地とばっちり、教祖の神様のお言葉を借りると、天地と同根でおありになるということがわかるでしょうが。ね。その天地と同根。だから、私共もまた言うならこりゃ、教祖金光大神の(    )とないわけ。皆もそのとおりのおかげが受けられる。という金光大神の世界を求めて、そこから、ね、生神金光大神の世界を目指していけれる。まず、和賀心の世界に入っていかなければならない。ね。そして、生神金光大神の世界、そこに天地と同根とまあ思われるような働きが自分の周辺に頂けるようになり、起こってくるようになる。
 ね。偉大です。だからそういうところをね、分かりふんまえての金光教でなかならければならない。これがほんと、これかうそということないけれども、いよいよ本当の本当を極めてまいりますと言うならば、(   )先生が言われたというその根本ということもです、ね、天の心、地の心を持って信心の根本としておるという事がもし分かられたら、自分達が言っておる言うなら根本というのは小さいものになってくるんじゃないだろうかと。その、小さいものから大きなものに育っていくところに大きなお徳も、大きなおかげも約束されるわけでございます。
 そして、和賀心。とにかく私はこの偉い先生が書いておられる『和賀心の世界』と見出しには出ておるけれども和賀心の世界というのは全然ふれてなかった。または、和賀心の世界にはこういう生き方になれば和賀心の世界を知る事が出来る。また、そこに入って行くことが出来るという手立ても何にも説いてなかった。だから、あの程度で和賀心の世界と思うておられるような教団人がいっぱいやなかろうか、先生方がいっぱいではなかろうか。
 御理解十二節でも、これは金光教の神観だよと。とただ言う程度でです、もう分かったような、言うならばその天地の心も分からず、言うなら心に触れる事も交流する事も知らずして言っておるといったような人達が沢山あるんじゃないだろうか。そして、小さい根本を、から、一歩も外に出ようとしていないという様なことにまでなってくるんじゃなかろうかというふうに思うですよね。どうぞ。